ダビデ王がエルサレムを追われ、逃亡の途上にあったとき、一人の男が現れます。彼の名はシムイ。彼は石を投げ、声を張り上げてダビデをののしりました。「血まみれの者よ!ならず者よ!」聖書を読むと、ただの悪口に見えるかもしれません。しかし、当時の言葉や文化を知ると、この場面はぐっと立体的に見えてきます。
1.「血まみれの者よ!」は単なる悪口ではない。
ヘブル語ではこう書かれています。אִישׁ הַדָּמִים (ish ha-damim)直訳すると「血の人」です。そしてdamim は「血」の複数形で、単なる「血だらけ」ではなく、「流血の責任」「血の罪」を意味します。つまり、「血の責任を負った人」という意味ですから、シムイは「お前は血の罪を負った者だ。神がその罪をさばいたのだ」と非難しているのです。これは宗教的・法的な重みを持った表現なのです。
2.「友」は仲良しではなく役職名
次に、「ダビデの友」という表現。ヘブル語では רֵעַ (re‘a)。通常は「友」と訳しますが、王宮では公式な称号として使われます。実際にヘブル語の学術的な辞書BDBには、こうあります。in term. techn.(技術的用語として)例:1列王記4:5、2サムエル15:37。Strong’sも同様に、technical sense: friend of the kingと注記しています。つまり、これは「王の相談役」「側近」を意味する官職名です。しかし、LXX(ギリシア語訳)は φίλος (philos) と訳し、単なる「友達」の意味に近い表現になっています。
日本語訳(新改訳2017)も「友」と訳していますが、これは原語の幅広さを保つ意図があったと思われます。注解で官職名である旨を補うと原語に近い理解が可能です。
3.「王は生きよ!」は祝賀の定型句
兵士たちが叫ぶ「王は生きよ!」も、単なる「長生きしてね」ではありません。ヘブル語では יְחִי הַמֶּלֶךְ (yeḥi ha-melekh)。これは古代近東の即位祝賀の定型句で、現代でいえば「陛下万歳!」に近いニュアンスです。翻訳によるニュアンスの違いがあるのです。
しかしこれは、ヘブル語と現代訳との間の問題ばかりではありません。古代訳のギリシア語訳LXXとヘブル語のマソラ本文(MT)の段階で既にあったというべきでしょう。
4.LXXとMTの違い――なぜ深みが変わるのか
| 表現 | MT(ヘブル語) | LXX(ギリシア語) |
| 血まみれの者よ | אִישׁ הַדָּמִים (ish ha-damim) | ἄνθρωπε αἱμάτων (anthrope haimaton) |
| ならず者よ | אִישׁ הַבְּלִיַּעַל (ish ha-beliyya‘al) | λοιμὲ τῆς καρδίας (loime tēs kardias) |
LXXは「血の人」「心の災い」と訳しますが、ヘブル語の「血の責任」「ならず者(律法を無視する者)」という宗教的・法的なニュアンスは弱まります。つまり、LXXは簡略化し、表面的な悪口に近づくのです。一方、MTを読むと、ダビデが「神のさばきを受けた者」として描かれる深みが見えてきます。
5.LXXって何?
ここで改めてLXX(七十人訳)について簡単に触れておきましょう。LXXは、紀元前3世紀ごろにエジプトで翻訳されたギリシア語聖書です。当時、ヘブル語を話せないユダヤ人のために作られ、後に初代教会でも広く使われました。しかし、LXXはしばしば簡略化や意訳を行うため、原文のニュアンスが薄れることがあります。そのため、聖書を深く理解するには、ヘブル語本文(MT)とLXXの両方を比較することが大切です。
6.新改訳2017、日本語訳「友」の選択理由
では、なぜ新しい日本語訳(新改訳2017)は「相談役」や「側近」ではなく「友」と訳したのでしょう。私は翻訳には携わっていないので、推測するまでですが、おそらく、原語の意味の幅を狭めないため、あえて中立的な言葉を本文に残し、詳しい意味は注解で補う編集方針が選ばれたのではないかと思います。「相談役」と断定するのは有力な解釈ですが、全訳者が同意するわけではありませんし、「相談役」は日本語で官僚的な響きを持ち、物語の自然な流れを損なう懸念もあります。そのため、本文は「友」、注解や脚注で官職名であることを補う方法が採られたのではないか、と考えるのです。
7.まとめ──言葉の深みに聖書の立体性を見る
このように細部の表現や翻訳の解釈を掘り下げていくと、聖書の物語は、歴史や文化、信仰が複雑に織り込まれた重層的なドラマとして迫ってきます。原語のニュアンス、その背景にある文化や宗教観を意識して聖書を読むことで、物語ははるかに豊かな意味を帯びて理解できるでしょう。そして改めて翻訳の難しさを感じるところです。
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