1.問題は「答えがあるか」ではない
ヨブ記というと、多くの人が思い浮かべるのは、「正しい人が、なぜこれほど苦しまなければならないのか」という問いでしょう。確かにその問いはヨブ記の中心にあります。しかし実は、ヨブ記をめぐる本当の問題は、苦難の理由そのものだけではありません。ヨブ記が何を答えているのかについて、人々が二千年以上も一致できなかったという事実です。
ある人はヨブを理想的な義人と読みました。ある人は神に反抗した罪人と読みました。ある人は歴史上の人物と考え、別の人は説話の主人公だと考えました。つまり、ヨブ記は最初から、誰もが同じように理解できる書物ではなかったのです。
2.古代ラビたちも意見が一致しなかった
そのことは、古代末期ラビ・ユダヤ教の文献を見るとよく分かります。以下のラビ的ヨブ像の整理は、根本豪「古代末期ラビ・ユダヤ教におけるヨブのイメージ――バビロニア・タルムード ババ・バトラ14b–16bから」を参照しています。同論文が分析する『ババ・バトラ』14b–16bには、ヨブについて驚くほど多様な意見が記録されています。
ヨブはモーセの時代の人だという者もいれば、捕囚後の人物だという者もいます。イスラエル人だという者もいれば、異邦人だという者もいます。アブラハムと比べられる義人だという者もいれば、神を冒涜した人物だという者もいます。さらには、ヨブの苦難の物語そのものを説話と見る解釈まで現れました。
現代の私たちから見ると、こうした見解は混乱しているように見えるかもしれません。しかし、この見解の併存は単なる混乱というより、ヨブ記をトーラー、神の正義、共同体の歴史意識と結びつけて理解しようとした解釈の蓄積として見ることができます。ヨブ記は、それほど簡単には整理できない書物として受け止められてきたのです。
3.なぜラビたちはヨブをめぐって争ったのか
彼らは単に歴史的事実を知りたかったわけではありません。本当に問うていたのは、「神は正しいのか」という問題でした。もしヨブが完全な義人であり、苦難が理由なく与えられたのだとすると、神の正義をどう説明すればよいのでしょうか。
そこでラビたちは、ヨブの言葉の中に問題を探そうとしました。神の世界支配を疑ったのではないか。復活や来世を否定したのではないか。神に対して不適切な言葉を語ったのではないか。そのような解釈が生まれた背景には、神の全能性と正義を守りたいという強い願いがありました。
しかし、ラビたちはヨブを一方的に断罪したわけでもありません。ヨブの発言を批判しながらも、「困難の中にある人は自分の言葉に責任を持てない」と判断を留保する見解もありました。ヨブ解釈とは、単なる人物評価ではなく、苦しむ人の言葉を神学がどこまで受け止められるかをめぐる格闘だったのです。
4.近代研究が目指したもの――混乱を整理する読み
19世紀から20世紀にかけての研究も、ある意味ではラビたちと同じ課題に取り組みました。それは、「この書物をどう理解すれば筋が通るのか」という問いです。そのため研究者たちは、ヨブ、三人の友人、エリフ、そして神の言葉を整理し、一つの神学へまとめようとしました。
ヨブの激しい発言は感情的な逸脱、友人たちの言葉は単純化された誤り、エリフはその中間に立つ比較的健全な神学、そして最後に神が正しい結論を示す。そのように読むことで、ヨブ記は理解可能な教えとして整理されました。
5.しかしヨブ記は本当に整理されているのか
近年の文学的・対話的な研究は、別の可能性に注目します。それは、ヨブ記が最初から一つに整理されることを拒んでいるのではないか、ということです。登場人物たちはそれぞれもっともらしいことを語りますが、誰も最終回答を持っていません。
エリフでさえ完全ではありません。神の語りも、「あなたが苦しんだ理由はこれだ」と説明するのではなく、世界の広大さを示しながら、人間の理解の限界を突きつけます。つまりヨブ記は、答えを与える書というより、答えを急ぐ私たちを揺さぶる書として読むことができます。
6.ラビたちと現代研究が出会う場所
ここで興味深いことがあります。現代研究は新しい発見をしたように見えますが、古代ラビたちも同じ問題に直面していました。彼らもヨブを一つの人物像に固定できませんでした。義人にも見える。罪人にも見える。イスラエル人にも異邦人にも見える。歴史的人物にも説話の主人公にも見える。だから彼らは議論をやめませんでした。
ヨブ記は、答えがなかったから読まれ続けたのではありません。異なる答えが次々に生まれ、それらを簡単に一つへ回収できない書だったから読まれ続けたのです。
7.ヨブ記が今も古びない理由
ヨブ記が今なお読まれるのは、決定的な答えを与えないからというだけではありません。人間は苦しみに出会うたびに、神は正しいのか、苦難に意味はあるのか、沈黙すべきなのか、訴えるべきなのか、という問いを繰り返します。そしてヨブ記は、その問いに対して一つの答えだけを押しつけません。
古代のラビたちも、近代の研究者たちも、現代の私たちも、この書の前では考え続けるしかありません。だからヨブ記は、「正しい説明を知りたい人」のためだけでなく、「正しい説明だけでは生きられなかった人」と、その人の言葉を聞く共同体のためにも読み継がれてきました。そしておそらく、これからもそうでしょう。(Dr. Makoto)
参考文献
根本豪「古代末期ラビ・ユダヤ教におけるヨブのイメージ――バビロニア・タルムード ババ・バトラ14b–16bから」『旧約学研究』第7号、日本旧約学会、2010年、1–20頁。
※本稿では、同論文が整理するラビ文献の諸見解を参照しつつ、論旨と表現を再構成しています。